世の中のオタクの定義は非常に曖昧である。
- 萌えの人(≒秋葉原)
- 社交性が無い人
- 趣味に熱中している人
どれも何となくは伝わるのだが明確な定義ではない。本エントリではオタクの定義について持論を述べたいと思う。
結論としては「面白いは存在すると信じ、リファレンス能力を用いた作品分析をできる人間」がオタクであると考えている。
なぜ「オタク」の定義が必要なのか
そもそもオタクの定義自体が不要で、各々が好きにオタクと思った人をオタクと呼べば良いのではないかという考えもある。
しかし各国の言語が国民性を形成するように「オタク」を「定義」することによって「オタク」としての「質」と「共通認識」を担保できないかというのが本エントリの一つの目的である。
なぜなら今日の日本では「オタク」と括られてしまう範囲が広すぎるのである。
これだけでもオタク認定されてしまう風潮すらある。なんでや。
オタクの定義とは
萌え=オタク?
この認識はドラマ版「電車男」の大ヒットで一気に大衆に植え付けられた。ドラマの影響は凄まじくこの前後で「オタク=根暗で危ないやつ」から「オタク=萌え」に様変わりしている。
「萌え」という言葉は2016年現在では「可愛い(キュンとする)」という意味で一般的にも使われており、「萌え=オタク」の印象は薄れていっている。2000年代はまだ「萌え」を口外すること自体躊躇われる風潮があった。
では可愛い女の子が好きで「萌え~」と言っている人間が「オタク」かというと否である。
社交性が無い=オタク?
では社交性が無い人はどうだろうか。
会社の飲み会に誘っても来ない同僚がいる時に
と言われると妙に納得してしまう。
その理由も「趣味に時間を割くため」であることも多いのでこの定義はある程度納得できる。しかし考えて欲しい。彼ら(私達)は「趣味のために無駄な時間を削いでいる」だけであり結果的に社交的でなくなっているだけである。
前後関係が逆であり社交性が無いからオタクになったわけではない。(そのケースも多いが)
趣味に熱中している=オタク?
別の観点としてオタクとしての深さという見方があり、その尺度には知識量や愛情が基準となっていることがある。
この観点からオタクの中にも「にわかオタク」と呼称される層が生まれた。
より「時間」を多く割いている、より「お金」を使っている、より「作品愛」があるものが真のオタクであるというカーストじみた考え方だが私はこれも厳密には正しくないと考える。
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